第5章 生理心理学
心理学概論
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5-1. 心と脳の関係
5-1-1. 生理心理学とは
生理心理学: 生理学的な手法を用いて、人間の行動の仕組みやその背景にある心の働きを解明しようとする学問
人間の心の働きの生物学的な基盤を探求する学問
生理学的な反応と心理学的な現象との間には関連性があることを前提にしている
主たる関心は脳を中心とする中枢神経系
アメリカ心理学の父ジェームズ(William James: 1842-1910)に遡ることができる
『心理学原理』(James, 1890)は脳の構造や機能の解説に多くのページが割かれており、心の働きを知るには神経学の知識が不可欠だと説かれている
初期の生理心理学研究では他の動物の脳を調べ、そこで得られた発見から人間の脳の機能を類推するという研究が主流
人間の脳を直接調べるのは困難だった
ペンフィールドらの研究は極めて例外的な事例
動物を用いた脳研究は人間と他の動物との間には進化的な連続性があるという仮定のもとで行われてきたもの(第6章 比較心理学)
人間の脳は大脳皮質と呼ばれる大脳の外縁部分が著しく発達しているなどの構造的な違いも見られる
人間に特有と思われる高次の認知機能を解明するにはやはり人間を対象とした研究が必要となる
近年は生理心理学は人間を対象とした研究の方が主流となっている
5-1-2. 脳神経系のしくみ
神経細胞(ニューロン): 神経の基本単位
核を含む細胞体には樹状突起と呼ばれる枝分かれした突起があり、隣接する細胞から信号を受け取る役割を担っている
受け取った信号尾は長く伸びた軸索に沿って伝わり、軸索の終末部から次の神経細胞(もしくは筋繊維、内分泌腺)に伝達される
軸索終末部と隣接する神経細胞との接合部位(シナプス)は密着しておらず、両者の間にある僅かな隙間(シナプス間隙)に化学物質(神経伝達物質)が放出されることで情報は伝達されていく
形や大きさは違うが、すべての神経細胞は細胞体、樹状突起、軸索という同じ構造を持っている
脳全体では千数百億個ものニューロンがあると言われている
ヘッブの法則
ヘッブ(Donald Hebb: 1904-1985)はある神経細胞から別の神経細胞への情報伝達が繰り返し行われると、細胞間の伝達効率が高まると考えた
同じ反応の繰り返しはシナプスに長期的な変化を引き起こす
これにより学習(第4章 学習心理学)が成立するのだと考えた
当時は仮説に過ぎなかったが、その後の研究で立証されている
脳: 心の働きにもっとも大きな役割を果たしている
脳幹
反射や呼吸といった生命に関わる重要な機能
この部分を損傷すると、動物は生命を維持することができない
小脳
運動や姿勢の制御
平衡感覚を司ったり、筋肉の緊張や協応運動
間脳
視床: 末梢神経から大脳へ、また大脳から末梢神経へ感覚情報を伝える際の中継地点
視床下部: 自律神経系の調整や、生存や生殖に関わる本能的な行動に関与
大脳: 2層に分かれている(脳は一般に外側に行くほど進化的に新しいとされる)
大脳辺縁系(内側): 情動に関わる扁桃核や記憶に関わる海馬などがある
大脳皮質(外側): 特に大脳新皮質と呼ばれる領域が大きく発達しているのが人間の特徴
皺が入っているのでそれを広げると頭蓋骨内側の表面積の約三倍ほどにもなる
大脳皮質にはいくつかの溝があり、特に深い溝を坂境に、前頭葉、頭頂葉、後頭葉、側頭葉と分けられる事が多い
機能局在論の考えに基づき、機能面から運動野、体性感覚野、聴覚野、視覚野、連合野(それぞれの領域で処理された情報が統合される場所)と言った部位に分けられることもある
5-2. 脳損傷患者の研究
5-2-1. 言語中枢の発見
https://gyazo.com/bd10549da878fb63ad22b50702bffa5a
source: 脳の話 その2
脳損傷により、心の働きに様々な不具合が生じることがあり、それを詳細に調べることで、脳と心の関係を追求しようとする
神経心理学と呼ばれることもある
ブローカ野
19世紀中頃、フランスの医師ブローカ(Pierre Broca: 1824-1880)が患者の中に言語を発する能力を失ったものがおり、没後に脳を解剖してみると前頭葉の一部に損傷が見つかった
ウェルニッケ野
ドイツの医師ウェルニッケ(1848-1905)が脳の別の領域に損傷があると、言語を理解する能力に支障が生まれることを発見した。
5-2-2. よく知られる症例
フィネアス・ゲージ(Phineas Gage: 1823-1860)の症例
鉄道工事の爆発事故で頭部を鉄の棒が貫通
事件以前は穏やかで責任感があり人望が厚かったゲージが、自己後は感情の起伏が激しく無礼で約束事などが守れない不誠実な人間になってしまった
後年、保管されていたゲージの頭蓋骨を脳の標準的な部位と照らし合わせ、腹内側前頭前皮質(VPFC)に大きな損傷を負っていた可能性が指摘されている(Damasio et al, 1994)
ダマシオ(Antonio Damasio: 1944-)は彼が現代のフィネアス・ゲージと呼ぶエリオットという者にも、ほぼ同じ位置に腫瘍が見られること、エリオットもゲージと同じような症状が見られることから、この部位は感情や社会性に関わる機能を担う場所であると主張している(Damasio, 1994)
H.M.(1926-2008)の症例
1953年、彼が27歳のときにてんかん発作のため脳の一部を除去する外科手術を受けたが、深刻な記憶障害に陥った
新しいことを長く記憶にとどめておくことができなくなった
これは順向性健忘症の典型的な症状
手術によって除去された脳の一部には海馬と呼ばれる部位が含まれていた
原罪では記憶との関連が深い場所として知られている
研究に協力的であったH.M.はこの分野で最も有名な症例として生存中、その症状が幅広く調べられた(Corkin, 2013)
2008年に死亡した後もその脳は保存されており、いまもなお研究の対象となっている
5-2-3. 脳の側性化
大脳は左右2つの半球に分かれており、各々を脳梁と呼ばれる太い神経線維の束がつないでいる
両半球には機能的な違いがあり、ブローカ野、ウェルニッケ野を含め、失語症をもたらす脳の損傷はそのほとんどが左半球で起きている
脳の側性化(ラテラリティ): 左右両半球での機能の分化
左半球: おもに言語情報の処理
右半球: 主に視覚的・空間敵情報の処理
脳梁が切断された患者ではそれぞれの脳半球が独立して機能しているかのような奇妙な現象が生じる
分離脳患者: 難治性のてんかん患者に対しては、一方の半球で生じた発作が、もう一方の半球に伝わって、発作が増幅することを回避するため、かつて脳梁を外科的に切断するという手術が行われていた
2つの脳半球は身体の各部位と交叉したかたちで対応している
視野においてはさらに複雑な交叉が見られ、視線を前方に固定した場合、視野の左側半分の情報は右半球へ、右側半分の情報は左半球に入る
ノーベル生理学・医学賞を受賞したスペリー(Roger Sperry: 1913-1994)とガザニガ(Michael Gazzaniga: 1939-)は情報を一方の脳半球のみに送るという研究を行った
初期に行われた実験(Gazzaniga, 1967)では、患者正面の画面中央に注視点を示し、「HE・ART」と瞬間的に提示した。
HEの部分は左視野から右半球に、ARTの部分は右視野から左半球に入ると考えられる
何が見えたか口頭で答えてもらうとARTが見えたといい、見えた単語を左手で指さしてもらうとHEを指した
左手を制御する右半球は言語では答えられなかったが、動作では答えることができた
5-3. 近年の生理心理学の研究
5-3-1. 非侵襲的手法の発展
神経細胞の活動を頭皮上で測定するもの
EEG(Electroencephalography: 脳波)
脳活動に伴って誘発される電位変化を測定する
これから派生した技術としてERP(Event-Relational Potential: 事象関連電位)と呼ばれる電位の測定もよく行われている
特定の事象に関連して一過性に生じる脳電位であり、光、音のような外部刺激だけでなく、心理学的な課題に取り組んでいるときなどに生じる内因性の変化(心理的な変化)によっても惹起されることが明らかにされている
事象発生の約300ms後に生じる陽性(positive)の電位P300が有名
MEG(Magnetoencephalography: 脳磁図)
脳活動に伴って発生する微弱な磁場を測定する
血液量の変化などによって脳の活動を間接的に測定するもの(神経活動が増えると酸素やブドウ糖の消費が増え、それを補うためにその部位の血流量が増大する)
PET(Positron Emission Tomography: 陽電子放出断層撮影法)
陽電子を放出する放射性同位体によって標識された薬品を投与し、その物質の脳組織中の濃度を時間敵、空間的に計測する
fMRI(functional Magnetic Resonance Imaging: 機能的磁気共鳴画像法)
観察対象に電磁波を照射し、原子核が共鳴して放出する電磁波を画像化する
PETと比べ多くの利点がある
薬物を投与する必要がない
空間分解能がPET 10mm³に対してfMRIは数mm³程度まで抽出可能
時間分解能もPETがせいぜい分単位なのに対し、fMRIは秒単位であり、より早い血流の変化を測定できる
ただしミリ秒レベルの時間分解能を誇るEEGやMEGと比較するとfMRIも決して高いとは言えない
反面EEGやMEGは空間分解能に乏しい
現在、最も利用されている手法
NIRS(Near-Infrared Spectroscopy: 近赤外線分光法)など比較的簡便に脳機能を測定できる手法も次々と開発されている
5-3-2. fMRIを使った研究例
社会心理学者でもあるアイゼンバーガーらは実験参加者にコンピュータ・ゲームを体験させ、その間の脳の働きをfMRIによって観測した(EisenBerger et al., 2003)
ボール回しで仲間はずれにされる際の参加者の脳の反応を見ると、前部帯状皮質(前帯状皮質, anterior cingulate cortex; ACC)の特に前帯状皮質背側部(dorsal anterior cingulate cortex; dACC)の活性化が大きくなることが明らかになった
これは人間が身体的な痛みを経験しているときに活性化するのと同じ部位
人間は集団生活を営むことで自然からの脅威を回避し、ここまでの繁栄を築くことができたのだと仮定するなら(第6章 比較心理学)、社会的孤立はかつて身体的な損傷に匹敵する危険であり、それゆえに2つの心的機能は同じ脳部位を共有するのに至ったのだと考えられている(Lieberman, 2013)
5-3-3. 脳の機能局在論
脳の機能局在論: 様々な心の働きがそれぞれ、脳の特定部位に局在化しているという考え
19世紀初頭ドイツ人医師のガル(Franz Gall: 1758-1828)は心の働きは大脳の表面の働きによるもので、異なる部位は異なる精神活動を担っていると主張した(Gall, 1835)
人の能力や性格の違いは、脳の大きさや形状として表れ、それは脳の入れ物である頭蓋を測定することでわかるとする骨相学も主張
骨相学は当時は一世を風靡しヨーロッパを中心に多くの骨相学者が骨相を診た
現代では科学根拠に乏しい俗説とされており、特に頭蓋骨の隆起と脳の機能との間には何の関係性もないことが明らかにされている
脳の様々な部位が異なる心的機能に対応しているという考え方自体は今も健在
ある心の働きがある脳部位に完全に対応しているというのは稀
多くの場合、心の働きは単一の仮定ではなく、複数の下位の過程から成り立つもので、それらが同時並行的に、あるいは一連の段階を経て働くことで、複雑な心の働きが実現する
脳機能の局在は固定されたものではなく、変化しうるものだという指摘もある
脳を損傷し、言語や運動機能を失った患者でも、リハビリによってその機能を回復できる場合がある
当初とは別の脳部位が損傷部の機能を肩代わりしていることがある
さらには経験によって脳の部位の大きさに変化が生じることもある
ロンドンでタクシーの運転免許所得に成功したものは、後部海馬の容積が相対的に増加していたことが報告されている(Woollett & Maguire, 2011)
最近はこのような脳の可塑性にも関心が集まっている
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